『背きの罪を告白する人』(2023.1.1礼拝)

礼拝説教題『背きの罪を告白する人』 詩篇32篇

【主題聖句】

私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。すると あなたは 私の罪のとがめを 赦してくださいました。(詩篇32:5)

この32篇は、ダビデが犯した姦淫と殺人の罪を指摘されて悔い改めた後に歌われたものだと思われます。詩篇の主題はその冒頭にあるように「幸いな人」とはどのような人かを教えること言えますが(詩1:1)、ここでダビデは自分自身の経験を通し、どんな人が「最も幸いな人」かを語ります。

  第一に、神様によってすべての罪を赦された人です。ここには「そむき」「罪」「咎」と三種類の罪があります。「そむき」は神様に対する反逆、「罪」は「的外れ」の意味で正しい道を踏み外していること、「咎」は不義の性質です。神様はそれらのすべてを「赦し」「覆い」「認めない」と言われます。私たちは、なかなか他者の罪を赦すことができません。口では赦しても、心の中では憎しみを持ち続けています。しかし、神様は違います。私たちの罪を完全に赦し、ご自身の義と愛で覆われ、二度と思い出されません(イザヤ43:25)。

  第二に、神様に自分の背きの罪を告白する人です。私たちが罪を犯したなら、たとえ誰にもばれなくても心に痛みがあり平安がありません(イザヤ48:22)。それは私たちの心に良心が存在するからであり、本能的に神様によるさばきがあることを知っているからです。しかし罪を神様に告白するなら、心に平安が与えられます。なぜなら神様は私たちが罪を告白したら、キリストの贖いのゆえに瞬時に罪を赦し、心をきよめてくださるからです(1ヨハネ1:9)。そして罪の濁流がどんなに激しくても助け出されます。また神様が私たちの「隠れ場」となられて、あらゆる罪の誘惑から守られます。   第三に、心に欺きのない人です。「罪がない」と言う人は自分を欺いて、神様を偽り者とすることになります(1ヨハネ1:8,10)。そうした者は「悪者」また「馬鹿」と呼ばれます。なぜなら神様の恵みによる罪の赦しを自ら捨て去るからです。しかし神様に信頼して素直に罪を認める人は「正しい人」と呼ばれ、神様の愛と恵みに取り囲まれて喜び楽しむ幸いな人となるのです。

三谷 浩司 牧師