『イエス様の沈黙』(2023.4.2礼拝)
礼礼拝説教題『イエス様の沈黙』詩篇38篇13-22節
【主題聖句】
しかし 私は聞きません。 聞こえない人のように。 口を開きません。 話せない人のように。(詩篇38:13)
聖書の読み方には二通りあります。一つは字義的な歴史的事実の記録としての読み方、もう一つは霊的なキリスト預言としての読み方です。この38篇の後半部分は、あえて後者の読み方をしてみます。つまりダビデが経験した激しい苦しみを、イエス様の受難の預言として受け取るのです。
第一に、イエス様は受難に対して沈黙を貫かれました。代表的な受難のメシヤ預言であるイザヤ書53章にも同様の預言があります(イザヤ53:7)。ダビデの苦しみは自分の犯した罪の結果によるものでしたが、イエス様は何一つ罪を犯していないのに逮捕され、不当な裁判により有罪判決を受けて死刑が宣告されました。しかしイエス様は自分の命を救おうとして自己弁護することなく沈黙を続けられ(マルコ14:60-61)、自ら十字架にかかって死なれたのでした。それは私たちの罪を身代りに負われて神様に罰せられ、私たちの罪を赦して永遠の滅びから救うためだったのです(イザヤ53:4-5)。
第二に、イエス様は父なる神様の御心に忠実に従われました。ダビデが敵に憎まれ、善にかえて悪を報いられたように、イエス様も正しいことを行ったゆえに世に憎まれて(ヨハネ7:7)、祭司長や律法学者たちに苦しめられました(ルカ9:22)。そしてダビデは「私を見捨てないでください」との祈りが聞かれて敵の手から命を救われましたが、イエス様は最愛の父なる神様に見捨てられて十字架で死なれたのです(マタイ27:46)。それらは全部私たちを救うための神様の御心による永遠の昔からのご計画であり(イザヤ53:10)、イエス様はその御心に死に至るまで忠実に従われたのでした(ルカ22:42)。
ぜひこの受難週、イエス様が私たちの罪のために受けられた御苦しみを覚えて、罪を離れ、義のために生きる決心を新たにしましょう(1ペテロ2:24)。そして来聖日にイエス様の復活を喜び祝うための心備えをしてください。
三谷 浩司 牧師