『咎ある者として生まれた私』(2023.7.30礼拝)
礼拝説教題『咎ある者として生まれた私』 詩篇51篇1-10節
【主題聖句】
私の咎を 私からすっかり洗い去り 私の罪から 私をきよめて
ください。(詩51:2)
この詩篇は表題にあるように、ダビデ王がウリヤの妻バテ・シェバとの姦淫の罪を犯し、それを隠そうとして忠臣ウリヤを戦場の最前線に送って殺したことを預言者ナタンによって指摘された時の悔い改めの祈りです。ここから人間の持つ原罪と、どうしたら罪から救われるかを学びましょう。
第一に、人間は生まれながらにして罪を犯す性質を持っているから罪を犯すのであり、それは教育や訓練によっては矯正できません。だから罪を犯さない人は一人もいないのです。ダビデ王ほどの立派な信仰者でさえ、心の隙を突かれて情欲に流され(2サムエル11:2)、その結果、罪に罪を重ねました。イエス様は「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です(ヨハネ8:34)」と言われましたが、救われるためには自分が神様の前に罪ある身だと正直に認めて告白し、罪の奴隷から解放されることを願い求めることが先決です。
第二に、人間が罪から救われるためには、すべての罪を拭い去られて、神様の前に完全にきよい存在として新しく生まれなければなりません。「ヒソプ」は植物の名で、汚れをきよめる儀式の時にいけにえの血を振りかけるために使われました(レビ14:51)。それはイエス様が十字架で流された血によって人間のすべての罪がきよめられることを象徴しています(1ヨハネ1:7)。イエス様は私たちの罪をご自身のいのちの犠牲をもって完全に拭い去ってくださり、罪で真っ黒に汚れた心を真っ白にしてくださいました。そしてイエス様を信じる者の罪はすべて赦され、永遠のいのちが与えられ、聖霊なる神の働きにより神の子どもとして新しく生まれ(テトス3:5)、やがて天の御国に入れていただけます(ヨハネ3:3)。それが聖書の教える救いです。
この救いは神様のあわれみにより、恵みによって与えられるものです。それを受け取る方法はただ一つ、イエス様を信じることです(ローマ10:9)。
三谷 浩司 牧師