『災いの日にも平安がある』(2024.11.10礼拝)
礼拝説教題『人の思い計りは空しい』詩篇94篇1-11節
【主題聖句】
わざわいの日に あなたはその人に平安を与えられます。 しかし
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
悪しき者のためには 穴が掘られます。(詩篇94:13)
クリスチャンだからといって必ずしも災いを避けられるわけではありません。しかし神様は私たちに「わざわいの日に、平安を与えられる」と幸いな約束をしてくださっています。その平安の根拠は何でしょうか。
第一に、災いの時にも神様が共におられるからです(イザヤ43:2)。全知全能なる神様は私たちを決して見放さず、見捨てられません(申31:6)。もし御心であるなら、どんな大きな災いからも助け出すことができます。パウロの乗った船が嵐に遭って難破しそうな時でも、彼には平安がありました。それは彼が神様と神様の御言葉を信じたからです(使27:24-25)。そして神様は約束通りにパウロと共に乗船していた全員を救われました。
第二に、災いさえも益となるからです(ローマ8:28)。もし神様が私たちを災いに遭わせるとしたなら理由があります。それは私たちが自分自身に頼らないで神様に頼る者となるためです(2コリント1:9-10)。そして私たちが災いの中で神様に頼ることによって得られた救いの希望と平安を証しし、それによって誰かが救われるならば、それは何より大きな益と言えます。
第三に、災いの先に栄光が待ち受けているからです(2コリント4:17)。もし私たちが災いによって命を失ったとしても、私たちには永遠のいのちと天の御国の約束が与えられています。私たちはそこでイエス様の栄光の御顔を仰ぎ見、いつまでもイエス様と共にいることができます。それは何という喜び、平安でしょうか。しかし神様を信じていない人にとって死は究極の絶望です。なぜなら、その人は罪に対する刑罰として永遠に神様の御顔と栄光から退けられて滅びることになるからです(2テサロニケ1:9)。
その人は災いを不幸・不安としか受け止めることができません。それに対し、災いの日にも平安を持つことのできる私たちは何と幸いでしょう。
三谷浩司 牧師