『主の門から入れ』(2025.8.31礼拝)
礼拝説教題『主の門から入れ』 詩篇118篇15-29節
【主題聖句】
義の門よ 私のために開け。 私はそこから入り 主に感謝しよう。 これこそ主の門。 正しい者たちはここから入る。(詩篇118:19-20)
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
118篇の後半は「メシヤ詩篇」です。22-23節と26節は新約聖書に何度も引用されており、イエス様ご自身によって成就しました(マタイ21:42、ヨハネ12:13)。その視点で読むと非常に福音的な内容であることが分かります。
第一に、イエス様は義の門であり、そこから入る正しい者たちは救われます(ヨハネ10:9)。正しい者とは狭くて道の細い「いのちに至る門」であるイエス様を信仰によって見出した人です。しかし大きく道の広い「滅びに至る門」から入って行く不信者のほうがはるかに多いのです(マタイ7:13-14)。
第二に、イエス様は人々に捨てられて救いの「要の石」となられました。すなわち祭司長、律法学者たちに憎まれ、民衆にも弟子たちにも見捨てられ、父なる神様にも見捨てられて十字架で死なれましたが(マタイ27:46)、死に勝利されて三日目に復活されました(使2:24)。それこそが主のなさった最も不思議な奇蹟であり、私たちの救いの堅固な土台です。それを記念するのがイースターであり、また週の初めの聖日です。それゆえに私たちは、その日を主への感謝と賛美と礼拝をもって楽しみ喜ぶのです。
第三に、「祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」と真実に告白する者だけが救いの恵みにあずかることができます。イエス様のエルサレム入場の時にシュロの枝をもって「ホサナ(お救いください)」と叫んだ群衆は、その数日後には「十字架につけろ」と叫び続けます(マタイ27:22)。それは表面だけの偽りの信仰だったからです。しかし私たちは正しい者として、心からの感謝をもって真実の「喜びと救いの声」をあげましょう。
私たちはイエス様を信じて、その力強い義の右の手によって滅びから救われ(イザヤ41:10)、「死ぬことなく、かえって生きる」者とされました。だから私たちは主の十字架の救いの御業を生きる限り語り告げるのです。
三谷浩司 牧師