『苦しみもまた幸い』(2025.11.16礼拝)

礼拝説教題『苦しみもまた幸い』 詩篇119篇65-72節

【主題聖句】

苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。 それにより 私はあなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

 第九段落は「ט (テ-ト)」で始まり、5つの節の最初の単語が「トーヴ(=良い)」になっています。確かに、神様はご自分の民に良くしてくださいます。だからと言って、神の民は苦しみにあわないわけではありません。しかし苦しみにあっても、主は最終的にすべて良くしてくださるのです。
 第一に、私たちは苦しみにあう前には神様から迷い出ていた者でした。神様を知らず、聖書の御言葉に聞き従わずに自分勝手に生きていました(ローマ3:10-12)。それが聖書の教える「罪」であり、罪があるから私たちは神様の栄光と守りと祝福を受けることができずに苦しむのです(ローマ3:23)。さらに神様を信じないこの世の人たちは高ぶる者であり、偽る者です。彼らは心が罪によって鈍感になっており、平気で不正を行い、他の人を傷つけます。私自身もかつてそのような者の一人でした。それゆえこの世で生きる限り、私たちは苦しみを避けて通ることは絶対にできません。
 第二に、私たちは苦しみにあうことによって、まことの神様を求めるようになります。「苦しい時の神頼み」と良く言いますが、私たちは何の苦難も抱えていなければ宗教に頼ることをまずしません。しかし自分の力ではどうにもならない苦難を抱えたなら宗教に頼るようになるのです(2コリント1:8-9)。そのような時にどんな宗教に頼るかは非常に重要です。なぜならこの世の多くの宗教は、いや聖書の教える唯一まことの神様を信じる宗教以外はすべて偽りであり、私たちを苦難から救うことはできないからです。私たちの最大の苦難は死とその後の永遠の滅びの刑罰であり、そこから私たちを救い出すことができるのは、復活によって死に勝利されたイエス・キリストただお一人です(1コリント15:55,57)。この方に信頼するならどんな苦難の中にあっても平安を得られます(ヨハネ16:33)。その時私たちは「苦しみにあったことは幸せでした」と告白できるのです。

三谷浩司 牧師