『嘲りと恥辱』(2024.2.11礼拝)

礼拝説教題『嘲りと恥辱』詩篇69篇13-28節

【主題聖句】
あなたはよくご存じです。 私への嘲りと 恥と恥辱とを。
私に敵する者はみな あなたの御前にいます。(詩篇69:21)

69篇の中盤の学びです。この箇所にはダビデの苦悩の激しさが描かれていますが、キリストが私たちの罪の赦しのためにどれだけ苦しまれ、また神の敵であった私たちに愛とあわれみを示されたかを学びましょう。

第一に、父なる神様への祈りと従順です。ダビデは始めの祈りを繰り返し、自分がいかに苦しく危険な状況であるかを訴えています。同時に神様の恵みとまことに心から信頼し、「みこころの時に」と祈っています。イエス様も十字架の死を目前にして、ゲツセマネで悲しみもだえながら「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と三度も祈られましたが、同時に「みこころがなりますように」と祈られたのでした(マタイ26:36-44)。

第二に、嘲りと恥辱です。ダビデが息子アブシャロムの手から逃れて都落ちした時、シムイは石を投げつけ、呪い嘲りました(2サムエル16:5-8)。まさに傷口に塩を塗る行為です。イエス様も人に拒まれ、弟子たちばかりか(マタイ26:56)、最愛の父なる神様にも見捨てられました(マタイ27:46)。またローマの兵士たちに嘲られ、ひどい辱めを受けました(マタイ27:28-30)。そして21節のごとくイエス様が十字架上で「わたしは渇く」と言われた時、兵士たちは水ではなく酸いぶどう酒を差し出したのでした(ヨハネ19:28-29)。

第三に、敵への愛とあわれみと赦しです。ダビデは自分を苦しめた敵を激しく呪い、神様に復讐を願っています。しかしイエス様はご自分を十字架につけた者たちに対し、「父よ、彼らをお赦しください(ルカ24:34)」と祈られたのでした。それゆえ悔い改めてイエス様を信じる者は誰でも罪を赦されて救われます。ただしイエス様を裏切ったユダのような者や(使1:20)、イエス様の福音を受け入れない者には、神様は復讐をなされます(ローマ11:9)。そして「いのちの書」に名前が記されていない者はみな、永遠の滅びの刑罰を受けることになるのです(2テサロニケ1:8-9、黙20:15)。

三谷浩司 牧師