『平和の君なるイエス』(2024.12.22礼拝)

礼拝説教題『平和の君なるイエス』イザヤ書9章6-7節

【主題聖句】

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:6b)

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

地上の誰もが争いを望んでおらず平和を望んでいるはずです。しかし歴史上、地上で争いが絶えたことは一度もありません。ではなぜ争いが起きるのでしょうか。またどうしたら争いを止めて平和をつくることができ、平和を保てるのでしょうか。そのことを聖書から学びましょう。
第一に、人が争うのは創造主なる神から離れたこと(=罪)によるものです。神によって造られた最初の人は神と共にエデンの園に住み、神と堅い信頼関係によって結ばれ、必要のすべてが満たされて平和に生きていました。しかし人が神との信頼関係を破る罪を犯してエデンの園から追放されたことにより(創3:23)、人は自己中心的な生き方をして他人と争い、また不足感により人を殺し、奪い取るようになったのです(創4:8)。
第二に、人は自分の力で平和をつくることも保つこともできません。なぜなら人が平和をつくるには、まず神との正しい関係が修復されなければならないからです。しかし神から離れた人は、罪という隔ての壁があるので神に近づくことができません(イザヤ59:2)。そのため神の側から、人が神と和解することのできる道を恵みによって開いてくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。罪のない神の御子が人の姿をとられて、すべての人の罪を負われて十字架で身代わりに死んでくださり、三日目に復活されました。誰でもこの方を救い主と信じるなら、すべての罪が赦されて神と和解させられ、永遠のいのちを受けて神の子どもとされます(コロサイ1:22)。それがイエス様が「平和の君」と呼ばれる理由です。
第三に、キリストを信じた人は平和をつくる者に新しく変えられます(2コリント5:17)。イエス様が自分を愛してくださったように人を愛し、自分を赦してくださったように人を赦し、自分を受け入れてくださったように人を受け入れることができるようにしていただけるのです(コロサイ3:13)。

三谷浩司 牧師