『苦しむ者の祈り②』(2025.1.19礼拝)
礼拝説教題『苦しむ者の祈り②』詩篇102篇12-28節
【主題聖句】
窮した者の祈りを顧み 彼らの祈りをないがしろにされないからです。(詩102:17)
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
102篇の前半はまさしく「苦しむ者の祈り」でしたが、「しかし、主よ。」から始まる後半は祈りが豊かに応えられたことに対する感謝の賛美です。そのように神様は信仰者の生涯に大逆転劇を起こすことのできる方です。
イスラエルの民は背信の罪のためにバビロン捕囚という極めて悲惨な出来事を経験しました。しかし、あわれみ深い神様は彼らの祈りを顧み、いつくしみの約束を果たされ、定めの時に彼らを捕囚から解放してエルサレムに帰還させ、神殿と市街を再建させられたのでした(エレミヤ29:10)。
神様は窮した者の祈りを決してないがしろにされず、顧みられ、助け出してくださる方です。だからこそ「苦難の日に わたしを呼び求めよ」と命じておられます(詩50:15)。そして神様は、私たちが自分の力に頼らず神様に頼るようになるために、私たちの力を弱らせることがあります。それで私たちが苦しみの中で主を呼び求めて救いの恵みにあずかることができるとしたら、それは幸いなことではないでしょうか(詩119:71)。
25-27節は新約のヘブル書でイエス・キリストに対する預言として引用されています(ヘブル1:10-12)。それは神様の約束は永遠に変わらないことの証明です。ですから、天地万物の創造主にして永遠に生きておられるイエス様に祈ることのできる私たちは、どんなに苦しくても窮することなく、たとえ途方に暮れても行き詰まることはないのです(2コリント4:8)。
また私たちは神様が祈りに応えてくださったことを後の世代の人々に語り伝えていく責任があります。それは同じ苦難に遭う信仰者たちが、神様の約束の確かさを知って希望と励ましを得るためです(エレミヤ29:11)。苦しみ者の祈りは自分を苦しみから救うだけでなく、罪に捕らえられて死に定められた者たちをもキリストに導いて救うことができるのです。
三谷浩司 牧師