『だれが主のようであろうか』(2025.7.6礼拝)

礼拝説教題『主の義は永遠に堅くだれが主のようであろうか』詩篇113篇

【主題聖句】

だれが 私たちの神 主のようであろうか。主は高い御位に座し身を低くして 天と地をご覧になる。(詩篇113:5-6)

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

この詩篇では、世界中の主のしもべたちが主の御名をとこしえにほめたたえるべき理由が高らかに歌われています。それは私たちの神、主のような方は唯一無二であり、主と比べ得るものは存在しないからです。
第一に、主はいと高き天上の栄光の御位に座しておられた方なのに、私たちを救うために限りなく低くなられました。すなわち神の御子なる主イエス・キリストは、神の御姿を捨てて無に等しい人間の姿をとられ、しもべとなられて私たち罪人の身代わりに十字架で辱めを受けて死んでくださいました(ピリピ2:6-8)。イエス様は「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た(マルコ10:45)」と言われました。何という謙遜でしょうか。
第二に、主は地のちりに等しい私たちを愛されて、罪による滅びから引き上げ、ご自分と共に王として永遠の御国に住まわせてくださいます。「灰捨て場」は「ゲヘナ」すなわち炎が消えることのない地獄を意味します(マルコ9:48)。イエス様は自ら進んでそこに飛び込まれ、私たちを滅びの穴、罪の泥沼から引き上げてくださり、揺るぐことのない巌であるご自分の上に立たせてくださいました(詩篇40:2)。いったい主の他に誰が、神を知らず、神に背いて生きてきた私たち罪人にそこまでの愛とあわれみを施してくださるでしょうか。まさに人知を超えた主の愛です(エペソ3:19)。
大切なのは、世界中のあらゆる宗教や神々と呼ばれるものの中で主に比類するものは皆無だと認めることです。ただイエス様お一人だけが、私たちを罪と滅びから救うことができるのです(使徒4:12)。イエス様を信じて救われた私たちは主のしもべとして、主の御名をとこしえにほめたたえましょう。そしてどんな時にも主だけに信頼して歩みましょう。

三谷浩司 牧師