キリストとは?
キリスト教の中心は、もちろんイエス・キリストです。ところで「キリスト」とは「油注がれた者」という意味で、ヘブル語では「メシヤ」です。聖書においては「偉大なる王であり、世の救い主となられるお方」をあらわす称号として用いられています。なぜか最近の新興宗教の教祖はこぞって「我こそはメシヤなり!」と言っていますが、全く根も葉もないでたらめです。本当にメシヤと呼べるお方はただ一人、イエス様だけです。
(4-1)神の御子
旧約聖書によればメシヤは「神の御子」でなければなりません。なぜなら神様ご自身がメシヤに対して『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ(詩篇2:7)』と仰せられているからです。
神の御子とは、言い換えれば「父のふところにおられるひとり子の神(ヨハネ1:18)」です。神様に子がおられるとは何とも不思議なことですが、聖書は「父なる神」と「子なる神」そして「御霊なる神」がおられることをはっきりと教えています。
旧約聖書の預言
なぜイエス様がメシヤなる神の御子だと言えるのでしょうか。その最も大きな理由は、旧約聖書に記されているメシヤの預言が、ことごとくイエス様によって成就されていることです。
そのいくつかをあげてみますと、(1)処女から生まれる(イザヤ7:14→マタイ1:23)、(2)アブラハムの子孫である(創12:3→ガラテヤ3:8)、(3)ユダの部族から生まれる(創49:10→ヘブル7:14)、(4)ダビデの血統から出る(イザヤ11:1→ロマ1:3)、(5)ベツレヘムで生まれる(ミカ5:2→マタイ2:6)、(6)聖霊によって油注がれる(イザヤ61:1→ルカ4:18)、(7)ろばに乗ってエルサレムに入城する(ゼカリヤ9:9→マタイ21:5)、(8)友によって裏切られる(詩41:9→ヨハネ13:18)、(9)銀貨30枚で売られる(ゼカリヤ11:13→マタイ26:15)(10)苦みを混ぜたぶどう酒を飲まされる(詩69:21→マタイ27:34)、(11)骨が折られない(詩34:20→ヨハネ19:33)、(12)神に見捨てられる(詩22:1→マルコ15:34)、(13)着物をくじ引きにされる(詩22:18→マタイ27:35)、(15)死からよみがえる(詩16:10→使徒2:31)、(16)父なる神の右の座に着く(詩110:1→マルコ16:19)。その他数百にものぼる預言がイエス様の御生涯において成就されていると言われています。
神様は預言によって、誰がメシヤであるかを人々が間違いなく認めることができるようにしてくださったのです。これらの預言に一つでも該当しない者はメシヤではありません。ならばイエス様以外のすべての者は除外されます。逆に言えば、これらの預言をすべて成就されたお方、すなわちイエス様こそは真のメシヤであり神の御子に違いないと断定できるのです。
誕生
おそらくイエス様の誕生いわゆる「処女降誕」ほど、多くの人々から攻撃を受けた教理はないことでしょう。確かにこれは常識では考えられないことです。しかしイエス様が処女であるマリヤからお生まれになったことには非常に重要な意味があるのです。
第1に、預言の成就です。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける(イザヤ7:14)」処女から生まれることは、神の御子であることのしるしです。
第2に、神が人となられたことです。「ことば(神の御子)は人となって、私たちの間に住まわれた(ヨハネ1:14)」これは罪によって神様に近づくことのできない人間に、神様の方から近づいてくださったことを意味します。私たちは人になられたイエス様を通して、目に見えない聖い神様にお会いすることができるのです。何と驚くべき恵みでしょう。
第3に、罪が全くないことです。肉から生まれた者はすべて、生まれながらにして罪(原罪)を持っていると聖書は教えています。しかしイエス様は聖霊によって処女マリヤの胎に宿り、罪のない人として生まれました。なぜなら罪と死の中にとりことなっている私たちを救い出すためには、罪のない完全な人間が必要だったからです。イエス様は私たちの罪の身代わりのいけにえとして死なれるために、人としてお生まれになったのです。
処女降誕は、私たちを救うために神様がとられた非常手段だと言えるでしょう。
奇蹟
イエス様が神の御子であられることの証拠は、なんと言っても多くの奇蹟をなされたことです。奇蹟とは超自然的な御業のことですが、それは神様の全能性を現すものです。
この世の中にも「超能力がある。奇蹟を行える」という人がいますが、イエス様の奇蹟はそのようなものとは全く異なっています。イエス様のすべての奇蹟は動機と目的をもってなされ、また多くの目撃者がいます。このような奇蹟を行なった人はイエス様の他には誰もいません。以下イエス様のなされた主だった奇蹟をいくつか紹介します。
1) 自然に対する奇蹟…水をぶどう酒に変える(ヨハネ2:1-11)。嵐を静める(マタイ8:23-27)。2匹の魚と5つのパンで5千人を満腹させる(マタイ14:15-21)。湖の上を歩く(マタイ14:25-33)。
2) 人に対する奇蹟…らい病人のいやし(マタイ8:1-4)。手のなえた人のいやし(マルコ3:1-5)。盲人のいやし(ヨハネ9:1-7)。耳と口の不自由な人のいやし(マルコ7:31-37)。悪霊を追い出す(マタイ17:14-18)。ヤイロの娘を生き返らせる(マタイ9:25)。ラザロを生き返らせる(ヨハネ11:38-44)。
3) イエス様の復活…最も偉大な奇蹟であり、神の御子としての確かな証しです(ローマ1:4)。
(4-2)救い主
イエス・キリストとは、どのようなお方でしょうか。新約聖書の4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)はイエス様の救い主としてのご生涯を様々な観点から記録しています。マタイは王としての、マルコはしもべとしての、ルカは人としての、ヨハネは神の子としてのイエス様を、それぞれが特徴的に救い主として描いています。
愛
「右のほおを打つような者には、左のほおも向けなさい(マタイ5:39)」というイエス様のおことばはあまりにも有名ですが、イエス様のご生涯は救い主としての愛の実践の生涯と言えます。イエス様はだれ一人分け隔てなくすべての人を愛されました。
特に人々から忌み嫌われていた人達に対するイエス様の愛は目を見張るものがあります。イエス様は、汚れた病気として近づくことすらいやがられたライ病人に手で触れられてその病をいやされました(マタイ8:1-4)。また、みなにののしられ疎外されていた取税人や罪人を喜んで友として受け入れられました(マタイ9:10)。
イエス様の愛は、ご自分を愛する者にだけにではなく、ご自分を憎む者、敵対する者に対しても与えられました。12弟子の一人イスカリオテのユダは、イエス様を裏切り、祭司長たちに売ろうとしていました。しかしイエス様はそれにもかかわらずユダに対して最後まで愛を示されました(ヨハネ13:1)。また十字架の上で苦しまれている時でさえ「父よ。彼らをお赦しください(ルカ23:34)」と、ご自分を十字架につけた人々のためにとりなしの祈りをなされました。
そのイエス様の愛は今も変わりはありません。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます(ローマ5:8)」とあるように、イエス様は私たちを愛し、私たちを救うために十字架で死んで下さったのです。
力(ちから)
イエス様は神の御子として全能の力を持っておられました(⑩-3「奇蹟」の項を参照)。
しかしその御力の中でも、私たちの救いのために最も重要なものをあげるとするならば、それは人を罪から救い出し新しくする力であり、死から解放し生かす力です。
新約聖書には、イエス様に出会うことによって罪から離れ、人生をまったく新しく変えられた多くの人物が記録されています。不品行の罪を犯していたため人目を避けた生活を送っていたサマリヤの女は、今までの生活を捨てる決心をし、自分の恥をもかえりみず町中の人々にイエス様を紹介しました(ヨハネ4章)。人々から不正に税金を取り立てていたザアカイは、罪を悔い改めて「財産の半分を貧しい人たちに施し、だまし取った物は4倍にして返す」と言いました(ルカ19章)。クリスチャンを猛烈に迫害していたパウロは、回心して歴史上最高のキリスト教宣教師となりました(使徒9章)。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(2コリント5:17)」とある通り、イエス様を知り、信じる者はだれでも、罪を取り除かれて新しくされるのです。
イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです(ヨハネ11:25)」と言われ、一度死んだラザロを生き返らせました。イエス様ご自身も十字架で死なれた後、3日目によみがえられました。そのように死を支配する力を持ち、死に勝利されたイエス様だけが、私たちを死の恐怖から救い出すことのできるお方です。「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。 キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました(2テモテ1:10)」
しもべ
イエス様のご生涯で特筆すべきことは何と言っても、神の御子が「しもべ」となられて私たちに仕えて下さったということでしょう。人間が神様に仕えるのなら当然ですが、神様が人間に仕えて下さるとは何と驚くべきことでしょうか。
イエス様は、か弱い人間の赤ちゃんとして、しかも王宮ではなく貧しい馬小屋でお生まれになりました。そして公生涯に入られてからは、まともに「枕する所」もなく、休みなく働き続けられました。福音書の中に何ヶ所か、イエス様が「疲れた」と記されていますが(ヨハネ4:6他)、イエス様はご自分の疲れもかえりみず、病に苦しむ多くの人をいやされ、人々に福音を宣べ伝えられたのです。またイエス様は弟子達に互いに仕え合うことを教えるために、自ら率先して弟子達の汚れた足を洗われました(ヨハネ13:4-15)。これは本来奴隷の行う仕事です。そのようにイエス様のご生涯は徹底してしもべの生涯であられたのです。
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです(マタイ20:28)」とイエス様は言われましたが、いのちまでも捨てて私たちに仕えて下さったお方がイエス様以外に誰かいるでしょうか。ですから私たちの救い主は、私たちのような罪人にも仕えた下さったイエス様だけです。
(4-3)十字架と復活
一般的に宗教で最も重要な事柄は教祖の教えとか模範とされる行動ですが、キリスト教は違います。キリスト教で最も重要な事柄は、パウロが第1コリント15章で述べているように、イエス様が「十字架の上で死なれたこと」と「三日目に復活されたこと」です。ここではイエス様の十字架と復活が私たちにとって何を意味するのかを学びます。
身代わりの死
十字架刑は新約時代のローマ社会でもっぱら行われていた極刑の一つです。人間を生きたままで十字形に組んだ木の柱に、両手両足を釘で刺し通して磔(はりつけ)にし、死ぬまで放置して、磔にされた囚人は何時間、時には何日も激痛と渇きに苦しみながらついには息を引き取る――という恐ろしい刑罰です。十字架刑はその残酷性から、ローマ市民でない身分の低い異邦人や奴隷で、しかも強盗や殺人のような重大な犯罪を犯した囚人にしか行われませんでした。
では、どうして何一つ罪のないイエス様がそんな刑罰を受けなければならなかったのでしょうか。答えを先に言いますと、それは「私たちの罪のため」です。本来ならば私たちが,この十字架-苦しみと死と呪いの刑罰-を受けなければならなかったのです。十字架は、罪人である私たちの罪の大きさと受けるべき刑罰の重さを示しています。
しかし愛なる神様は罪人である私たちをあわれんで下さいました。そして罪を知らないお方、すなわちご自分のひとり子であるイエス様を私たちの代わりに罪とされて(2コリント5:21)、私たちのすべての咎をイエス様に負わせられたのです(イザヤ53:6)。実に、イエス様は私たちの身代わりとして十字架の上で死んでくださったのです。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです(1ペテロ2:24)」
罪のあがない
イエス様の身代わりの死によって、私たちの罪は赦されました。これを贖い(あがない)と言います。贖いとは、もともとは代価を払って奴隷を買い取るという意味ですが、イエス様はご自分のいのちを代価として、罪の奴隷である私たちを死とさばきと滅びから救い出して下さったのです。
ところで、なぜイエス様の死による贖いが必要だったのでしょうか。それは聖なる神様の正しさによるものです。すべての人は神様に対して罪を犯しました。その罪が取り除かれるためには、神様は犠牲―罪の代価―を要求されます。その要求が満たされるまでは、義なる神様は決して罪人をお赦しになることができないのです。しかし罪の代価はあまりにも大きすぎて、人は誰一人として自分で払うことはできません。そこでイエス様は、私たちに代わって罪の代価をすべて支払って下さった、いわば私たちの罪による負債を全面的に肩代わりして下さったわけです。
私たちの罪の代価を支払うために、イエス様は「なだめの供え物」「いけにえ」となって下さいました。すなわち罪人である私たちの身代わりとなってイエス様が苦しんで死んで下さったことによって、私たちの罪に対する神様の怒りはなだめられ、そのなだめの結果として罪による刑罰が免除され、もはや私たちが罪を問われないようにしてくださったのです。これが贖いであり罪の赦しです。「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています(コロサイ1:14)」
新しいいのち
私たちの救いにとって、十字架と共に不可欠な事柄はイエス様の復活です。もしイエス様が死なれたままで復活されなかったら、イエス様が本当に神の御子であられるかどうか、また私たちの罪が本当に赦されたかどうかも、確信することができません。しかしイエス様は事実復活されました。それは多くの証拠と証人によって確証されています。
その証拠の主なものをあげてみましょう。まずイエス様が葬られたといわれる墓が空であるということです。聖書には「弟子達が盗んだと言ううわさが広まった」とありますが、それは絶対有り得ません。なぜならその墓にはローマ兵がいて、寝ずの番をしていたからです。もしイエス様の死体を盗まれでもしたら彼らは当然死刑ですから、そんな失態をやすやすとするはずがありません。
また弟子達がイエス様が復活したと大胆に証ししていることです。弟子達は、イエス様が逮捕されたと同時にほとんど全員が逃げ隠れしてしまいました。弟子のトップであったぺテロでさえもイエス様を知らないと3度も言い張ったほどです。しかしその臆病な彼らが、死をも恐れず復活のイエス様を宣べ伝えるようになったのです。彼らがそのように変えられたのは復活が真実であったからとしか説明がつきません。
イエス様の復活は、イエス様が本当に神の御子であられることの証拠であり、私たちの罪が本当に赦されたことの保証です。そればかりでなく、イエス様は「私たちの初穂としてよみがえられた(1コリント15:20)」のです。すなわち神様は大能の力によって、イエス様に新しい永遠のいのちを与えて栄光の体によみがえらせられたように、イエス様を信じる者にも新しい永遠のいのちと栄光の体を与えて下さるのです。