『主の家に住む幸い』 (2022.11.13礼拝)
礼拝説教題『主の家に住む幸い』 詩篇27篇
【主題聖句】
一つのことを私は主に願った。 それを私は求めている。 私の
いのちの日の限り 主の家に住むことを。 主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。(詩篇27:4)
ダビデの生涯は戦士として敵と戦い続けた生涯でした(1歴22:8)。そのダビデが何よりも願ったのは「いのちの日の限り、主の家に住むこと」です。彼は多くの血を流したために、目に見える「主の家」としての神殿を建てることは許されませんでしたが、目に見えない「主の家」である神様の臨在感、その愛と慈しみの御手に包まれることを、ひたすら願い求めたのでした。
第一に、「主の家」は「救いの光」「いのちのとりで」です。夜外は暗くても家の中は「光」があって明るいです。神様の光は私たちの罪による暗い心や人生の道を照らして苦悩や危険から救い出してくださいます(詩119:105)。またもし敵に取り囲まれても「とりで」である「主の家」に逃げ込むならば、敵の攻撃から命を守られるだけでなく、神様ご自身が敵を打ち倒してくださいます(詩37:39-40)。それゆえダビデは、「主の家」に自分が住まう限り、何ものをも恐れず、怖がることなく、動じないと告白しているのです。
第二に、「主の家」は個人的に神様と親しく交わる場です。ダビデは主の麗しさを仰ぎ見、思いにふけるために主の家に住まいたいと言っています。それは順境の日だけでありません。「悩みの日」にこそ奥まった部屋に入り隠れた所におられる神様に祈れと、イエス様は命じられました(マタイ6:6)。そこで神様の御顔を慕い求め、御名を呼び求めるなら、神様は必ず答えてくださいます。人間の家庭ではしばしば不和も起こり得て、親が我が子を見捨てることもあります。しかし父なる神様は愛する子を見捨てることは決してありません(イザヤ49:15)。たとえその苦悩が私たちが神様に対して罪を犯したことが原因だとしてもです。その時は「主の家」で悔い改めれば良いのです。そして主の愛と慈しみを信じ、主の救いを待ち望みましょう。
三谷 浩司 牧師