聖書とは?

「もしあなたが無人島で暮らさなければならないとして、ただ1冊の本を持って行けるとするならば、どんな本を持って行きますか?」という質問をしたところ、大多数の人が「聖書」と答えたそうです。聖書を1度も読んだことがなくても、聖書は特別な本だと感じている人は少なくありません。
では、いったい聖書とはどんな本なのでしょうか。 また私たちにどのような影響を与えるものなのでしょうか。

(1-1)不思議な本

もしあなたが聖書をお持ちでしたら、取り出して開いてみてください。国語辞典ほども厚さがあり、字ばっかり書いてある退屈そうな本ですね。どうですか。一目見ただけで読む気がしなくなった人もいるのではないでしょうか。しかしこの聖書は、あらゆる時代のあらゆる人々を魅了し、他のどの本よりも熱心に読まれ続けて来たのです。そこには多くの不思議があります。

世界一のベストセラー

ある新聞は「聖書は隠れたベストセラー」であると呼びました。それもそのはずです。聖書は日本国内だけでも、毎年数百万部が買われているのです。普通は発行部数が百万部を越えると「ミリオンセラー」といって大評判になるものですが、聖書は毎年そうなのです。キリスト教国でない日本ですらこれほどの数字ですから、全世界では何冊売られているか想像もつきません。恐らく億単位でしょう。これほど売られ、そして買われ続けている本は聖書以外に存在しません。
  また聖書ほど多くの国の言葉に翻訳されている本はありません。現在、部分訳も合わせると2000以上もの言語に翻訳されています。あの有名なシェークスピアの文学でさえ翻訳されているのは数十ヵ国語だそうですから、これは本当に驚くべきことです。
  これらのことは、聖書が多くの人々に本当に必要とされている本であるということを証明しています。年々聖書を読む人は増える一方だと言われています。大昔とも呼べる時代に書かれた本が、科学万能の現代において最も必要とされているとは何とも不思議なことではないでしょうか。

書かれた時代と書いた人々

聖書の目次を見てみますと、旧約聖書と新約聖書の二つに別れており、旧約は39巻、新約は27巻、全部で66の書巻があるのがわかります。
これらの書巻は、一度に一人の著者によって書かれたのではありません。一番古い書巻である「創世記」は紀元前1500年頃、一番新しい書巻である「ヨハネの黙示録」は紀元後100年頃に書かれました。
  聖書を書いた人は約40人で、彼らは実に様々な立場の人々です。ダビデやソロモンのような王様もいれば、ぺテロやヨハネのような漁師もいます。他に貴族(イザヤ)、学者(エズラ)、祭司(エレミヤ、エゼキエル)、大臣(ダニエル)、医者(ルカ)、羊飼い(アモス)といった人がいます。
  また聖書の書巻は、法律の本(創世記~申命記)、歴史書(ヨシュア記~エステル記)、詩や格言(ヨブ記~雅歌)、預言の書(イザヤ書~マラキ書、ヨハネの黙示録)、記録書(福音書、使徒の働き)、手紙(ローマ人への手紙~ユダの手紙)といった色々な文学形式で書かれています。
  すなわち聖書とは、1600年間もの長い時代に渡って、様々な身分や職業の人たちが、その人なりの色々な文学形式を使って書いた本の「集まり」であるわけです。このようなバラバラとも言える本のよせ集めが「1冊」の聖書として、66あるどの書巻もはぶかれることなく、また新たに加えられることなく、十幾世紀も保ち続けられて来たという事実は本当に不思議です。

書かれた目的はただ一つ

しかし聖書の最も不思議なことは、66巻が信じられないほど見事に「統一がとれている」ということです。
聖書66巻の主題(テーマ)はどれも同じで一つです。それは「神様がキリストによって人類を救われる」ということです。すなわち聖書のすべての書巻は、私たちが救い主イエス・キリストを信じて救われるために書かれたのです(ヨハネ20:31)。
  聖書の記事は、宇宙と人間の創造に始まり、人間の堕落、救い主の約束、救い主の到来と続き、未来における救いの完成で終わっています。旧約聖書はイエス・キリスト誕生の予告であり、新約聖書はイエス・キリストによる救いの成就の知らせです。
聖書は66巻が互いに補いあって、全体で一つの思想“神様の救いの計画”を私たちに伝えます。もし66巻のどれか一つでも欠けたなら、聖書は不完全なものとなってしまいます。また旧約聖書と新約聖書を切り離すこともできません。
  あたかも聖書は、初めから「一人の人」によって書かれた「1冊の本」のようです。

(1-2)神のことば

現代の多くの教会は、聖書を「誤りのある、神の言葉を含む文書であるが、信じる者にとっては神のことばとなりうる」という考えを持っています。しかし福音的な教会は「聖書は誤りのない、唯一の、神のことばである」という信仰告白をしています。ではどうして聖書は神の言葉といえるのでしょうか。

真の著者は神様

「霊感」という言葉を聞いたことがありますか。最近「霊感商法」という詐欺まがいの行為が問題になっていますが、その「霊感」は聖書で使われている意味とは全く違います。
  聖書における「霊感」とは英語の「インスピレーション」の訳で、「聖書の著者が聖書を書く時に受けた聖霊(神のきよい御霊)の導き」のことです。「聖書はすべて神の霊感によって書かれたもの(2テモテ3:16)」であり、「聖書の預言は人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神からのことばを語った(2ペテロ1:21)」のであると聖書の著者たちは証言しています。
  聖書を実際に書いたのは人間である著者たちですが、彼らはすべて霊感によって聖書、すなわち神のことばを書き記したのです。それはあたかも笛の音色のようなものです。音を出すのは笛ですが、本当の演奏者は笛を吹く人です。ですから聖書の本当の著者は神様ご自身なのです。

誤りが全くない

しかし、聖書の中に「聖書は神のことばだ」と書いてあっても、そんなのは証拠にならないと思われる方もいるでしょう。そこで客観的な証拠を二つ上げます。
  その一つは「聖書には誤りが全くない」ということです。聖書は何世紀にも渡って、あらゆる学識者から攻撃され続けてきました。もちろん今でもそうです。しかし驚くべきことに「聖書は明らかに間違っていた」と証明できた人は未だに一人もいないのです。
  聖書の誤りを指摘する最強のものは進化論ですが、進化論はあくまでも推論であって事実として認定されているわけではありません。かえって科学が発展するにつれて進化論の矛盾点が数多く発見され、現代では逆に聖書の創造の記事の正しさが見直されているほどです。事実アメリカでは学校の授業で進化論と創造論のどちらもが教えられており、どちらの説をとるかは生徒個人の自由な選択にまかされているそうです。これからも科学の研究が発展すればするほど聖書の正しさが明らかになっていくことでしょう。
  また聖書の正しさは「預言の成就」によって証明されます。聖書には数多い預言がなされていますが、それらは驚くほど見事に成就しているのです。特にイエス・キリストに関する預言は完璧なまでに成就しています。ある学者はその預言があまりにも詳細に的中しているため、キリストの弟子たちが偽造したものに違いないと主張しました。しかしキリストに関する預言のほとんどは、キリスト誕生の数百年前に書かれたものですから、絶対にそんなことはありえません。
  神様は「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる(イザヤ 55:11)」とお語りになっています。預言の成就は、聖書が誤りのない神のことばであることの大きな証拠です。

永遠に変わらない

聖書が神のことばであるもう一つの客観的な証拠は、聖書の「永遠性」です。
  私たちが現在手にしている聖書は、古くは3400年前、最も新しいものでも1800年前に書かれた聖書原典の写本(旧約はヘブル語、新約はギリシャ語)から翻訳されたものです。普通どんな有名な書物でも数百年経つと原典の形は失われるものですが、聖書は違います。聖書は原典から、一字一句間違えることのないように丁寧に書き写されて保存されてきました。ですから、私たちが今読んでいる聖書は、原典そのままから翻訳されたものと言ってもよいのです。
  そのように聖書は、はるか昔に書かれた書物です。にもかかわらず聖書の教えは現代でも通用するものです。しかも最高の水準を持っています。それゆえ、聖書の教える道徳、倫理、法律、福祉などの多くは現代の私たちの社会にそのまま取り入れられています。
  ところで、聖書はいつの時代でも大切に保護されてきたのでしょうか。いいえちがいます。聖書ほど憎まれ迫害に会った書物は、他にはないと言えるでしょう。
  あらゆる時代において聖書を根絶しようとする試みが続けられてきました。ローマ帝国時代には、聖書はことごとく焼き捨てられ、聖書を持っているのを見つかった者は容赦なく殺されました。カトリックが権力を握った時代には、一般信者が聖書を持つことも読むことも一切禁じられ、その法令を破った者は極刑に処せられました。さらに近代においては、学者や知識人たちがこぞって聖書を徹底的に批難中傷し、その権威を完全に否定したのでした。
  しかし聖書は滅びませんでした。それどころか迫害を受ければ受けるほど世界中に増え広がり、多くの人々に読まれていったのです。イエス様が「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません(マタイ24:35)」と言われた通りです。
  聖書は永遠に変わらず、永遠に私たちに影響を与え続け、永遠に失われない神のことばなのです。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ(イザヤ40:8)」

(1-3)人生のよりどころ

聖書がどんなに不思議な本であっても、また本当に神のことばであるとしても、それが私たちの人生に何の関係もないものであるならば、私たちは聖書を必要としないでしょう。しかし聖書は、過去多くの「偉人」と呼ばれる人々の生涯に大きな影響を与えて来ました。リンカーン、ガンジー、ヘレン・ケラー、ニュートン…彼らはみな聖書を土台として人生を歩んだ人たちです。聖書は私たちの人生の土台、よりどころとするのに最高最良の書物です。

きよい生活

クリスチャンというと「清い」というイメージが第1にあがりますが、それは的確な評価だと思います。そのクリスチャンの清さは聖書の教えに従うところから来ているのです。詩篇の119篇9節に「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです」と書かれている通りです。聖書は私たちを、神様に喜ばれる「きよい生涯」へと導き入れてくれるのです。
  多くの人々が、聖書に出会うことによって悪しき罪の生活から脱出して来ました。ある人は酒浸りの生活から、ある人は賭事を止められない生活から、ある人は性的に堕落した生活から、ある人は暴力にまみれた生活から、それぞれ正しくきよい生活へと見事に変えられて行ったのです。この世の中には色々と優れた教えがありますが、聖書以上に、これほど人をすばらしく変えることのできる教えはありません。

正しい選択

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です(詩篇119:105)」
私たちは生涯の中で、進むべき道を選択しなければならない場面に何度も遭遇します。進学、就職、結婚…その時あなたは、何をもとに選びますか。経験ですか、直感ですか、それとも占いですか。そういったものに頼るならば、あなたの選択は安全だとは言えません。
  「一寸先は闇」ということわざがありますが、私たちは自分の将来がどうなるかを知ることはできません。一歩進む方向を間違えば、とんでもない危険な道へ迷いこんでしまうことがあるのです。ですから私たちは最も安全で正しい選択をすべきです。
  そのために有益なのが聖書です。聖書は、私たちの将来をすべて知っておられる神様のことばです。もしあなたが真剣に、聖書によって正しい道を見出そうとするならば、あなたの全生涯を支配されている神様が、聖書を通してその道を教えてくれます。
  歴史の中で、人々は多くの誤った選択―聖書を無視した選択―をして来ました。それらは不平等を産み出し、貧困を産み出し、戦争を産み出して来ました。しかし人々が聖書に従った正しい選択をしたとき、社会は平等、福祉、平和を回復して行ったのです。奴隷解放、女性の地位の向上、社会的弱者の救済、武力の放棄、それらはすべて聖書的な正しい選択から出たものです。聖書こそ、聖書だけが、絶対に安全な正しい道の選択方法です。

人格的な成長

アメリカの第26代大統領ルーズベルトは「聖書を教えない教育は、無責任な人にピストルを渡すようなものだ」と言いました。またイギリスの詩人テニソンは「聖書を読むこと自体が教育である」と言いました。そのようにキリスト教国家では、いつの時代にも聖書は人格的教育に欠かせないものとされてきました。
  この日本においても、聖書教育による人格的成長は大いに評価されています。クリスチャンでないにもかかわらず、自分の子供をミッションスクールに入学させたいと思っている人が多くいることは、その顕著な証拠です。
  聖書は「霊の食事」とも呼ばれています。それは「肉の食事」が私たちの体を成長させるように、聖書は私たちの霊的な部分、すなわち人格を成長させてくれるからです。
  食事は口に入れて、そして消化されて初めて私たちの体の成長につながります。聖書も同じです。まず聖書は信じて読まなければなりません。食事をするときに「これは食べられるのだろうか」と疑うなら食事を口にいれる事はできないでしょう。
  次に聖書のみことばの意味を理解して自分のものとしなければなりません。しかし人間の知恵、知識だけでは決して聖書を正しく理解することはできません。食物の消化に消化液の助けが必要なように、神様のことばである聖書の理解には、著者である神様の助けがどうしても必要なのです。ですから、私たちが聖書を読む時には「神様、どうか私に聖書を理解させてください」という祈りをもって読むことが大切です。
  私たちが、聖書を神様のことばであると信じて読み、神様の助けによってみことばを本当に理解して自分のものとするならば、私たちは人格的、霊的に豊かな成長を得ることができます。聖書はそれを「御霊の実を結ぶ」という言い方をしています。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった、神様の持っておられるすばらしい性質を自分自身の内側に宿すことです。
  聖書とは、私たちにこのようなすばらしい霊の実を結ばせ、人格的な成長を豊かにあたえることができる書物なのです。

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