神とは?

本居宣長という人が『古事記伝』の中で、「何であろうと、尋常でなく、優れた力や徳があり、恐れかしこむべきものを神という」と言っています。彼によれば、山や海や樹木などの自然物、雷などの自然現象、龍や狐などの動物も神となるわけです。これは「八百万(やおよろず)の神」と言われる日本人の神観をよく現しています。しかし聖書は、そのようなものは神ではなく全て偶像であること、そしてただお一人の真の神がおられることを教えています。

(2-1)神はいるのか?

無神論者は「神などいない」と、汎神論者は「宇宙そのものが神なのだ」と、理神論者は「神とは宇宙の法則エネルギーにすぎない」と言い、人格的な神の存在を否定しています。しかし彼らの主張には何の根拠もありません。現実には、神が絶対存在しないと考えるなら、この世の中の多くの事柄は説明ができません。反対に神が存在すると考えるならば、ほとんどすべての事柄は簡単に説明できるのです。

聖書からの証明

創世記1章1節に「初めに、神が天と地を創造した」とあるように、聖書は最初から神が存在することを前提として書かれています。実は、聖書には神の存在を証明しようとしている箇所はどこにもありません。なぜなら聖書においては、1+1=2であることが当たり前のように、神の存在は当然明白な事実とされているからです。
 すなわち、聖書は神の存在を証明するものではなく、私たちが実存している神について正しい認識ができるように、神がどのようなお方であるかを説明しているものなのです。聖書を読むならば、私たちは神の存在を知ることができるでしょう。そして聖書に書かれていることが真実と認めるならば、私たちは神の存在を信じることができるでしょう。
 そのとき聖書は、私たち自身にとって唯一の確実な神の存在の証拠となるのです。

宇宙からの証明

「すべてのものには原因と目的がある」と「すべてのものは全くの偶然の連続である」とでは、どちらが信頼できるでしょうか。
 私たちが住んでいるこの宇宙には驚くべき秩序があります。もし太陽、月、地球の位置が少しでもずれていたなら地上は灼熱か極寒のどちらかです。また地球の地軸に傾きがなければ季節は存在しません。また水が温度によって三態変化(氷→水→水蒸気)しなければれば地上は大洪水になりますし、雨が降ることもなくなります。いずれにしてもそれらの秩序が狂ったなら地上に生命は生息できません。  
 自然界にも秩序があります。最も驚くべきものは食物連鎖でしょう。小動物が微生物を食べ、小動物を大きな動物が食べる。動物は死ぬと微生物によって分解され、植物の栄養素となる。その植物を草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べる。この鎖のどこかがとぎれてしまったら自然界はすぐに絶滅してしまうでしょう。
 また動物の体のしくみを考えて下さい。実に精密かつ合理的にできています。無駄な器官は一つもありません。驚くべきことに、その体はたった一つの細胞が分裂してできあがったものなのです。
 これらの秩序が偶然の連続によってでき、偶然の連続によって保たれているなどと、どうして信じられるでしょうか。ありえないことです。しかし神が存在することが事実なら簡単に説明できます。
すべての秩序は神が原因であり、神が目的をもって造られたのです。
 聖書は、私たちの理解を越えた偉大な意志と力を持っている神がおられて、その神がある目的をもってすべてのものを秩序的に創造され、今もその秩序を保たれ続けていることを明らかにしています(ローマ11:36、1コリント8:6、コロサイ1:16-17)。

人間からの証明

人間は生まれながらにして宗教心―神を恐れかしこむ心―を持っています。無神論者は「人間の持っている宗教心が神を造り出した」と言いますが、ではその宗教心を人間に与えたのは誰でしょうか。進化論に基づいて偶然に人の心に生じたとでも説明するのでしょうか。感情が偶然に生じるなどということは考えられません。必ず原因があるはずです。
 神を恐れかしこむ心を人間に与えることができるのは、神以外にはありえません。人間が宗教心を持っていることはそのまま神が存在する証拠になるのではないでしょうか。
 また人間は道徳心を持っています。人間には善悪を区別する心、善を喜び悪を憎む心が誰にでもあります。これは当たり前のことでしょうか。では、何が善で何が悪であるかを決めたのは誰ですか。なぜ殺人や盗みは悪いことなのでしょうか。おそらく誰も答えることができないでしょう。もちろん人間が決めたのではありません。人間以外の誰かが決めて、それを人間の心に植え付けたのです。これも神の存在なくしては説明できません。
 人間以外の動物は宗教心、道徳心を持っていません。逆にいえば人間だけが神を恐れかしこむ心、善と悪を区別する心を持っているということです。このことは「神は人を、神のかたち(性質)に創造した」と言う聖書のみことばの確かな論証ではないでしょうか。

(2-2)神とはどんなお方か?

「主は私たちの神、主はただひとりである(申命記6:5)」
 私たちが神を知ろうとするなら、どうしても聖書を読まなければなりません。なぜなら神は唯一であり、その神について教えているものは聖書以外にはないからです。ここでは聖書が神についてどのように教えているかを見てみましょう。そして聖書に教えられている神が、あなたの今まで考えていた神と違っているかどうか、違っていたとしたらどちらが本当の神らしいか、それをよく考えてみてください。

目にみえない

「神を見せてくれれば信じる」という人が多くいます。しかし聖書は、神様とは目にみえない「霊」なるお方だと言っています(ヨハネ4:24)。「霊魂」の存在を信じている人は日本人の中にも多くいると思います。それならば「見えないから神様を信じない」というのは理由になりません。
 もし神様が目にみえる物質的な存在であるなら、神様は有限なお方でありましょう。しかし神様は霊であるからこそ、時間と空間を超越した無限なお方なのです。霊なる神様は永遠に生きておられ(黙示4:9)、変わることがなく(マラキ3:6)、天にも地にも満ちておられる(エレミヤ23:24)お方です。
 それに対して、目にみえるこの世の神と呼ばれるものは、実際には存在しない偶像の神です(1コリント8:4)。それらは人の想像によって造られた物にすぎません。一定の場所から動くこともできず、時間が経てば変化し滅びていくものがどうして神であり得ましょうか。
 しかし目に見えない神様は一度だけ、目にみえる姿をとられて私たちの所に来て下さいました。それが神の御子イエス・キリストです。キリストは目にみえない神様の目にみえるかたちであり(コロサイ1:15)、その内には神様の満ち満ちたご性質が形をとって宿っていました(コロサイ2:9)。
 12弟子の一人であるピリポは、「私たちに父(なる神)を見せてください。そうすれば満足します」とイエス様に言いましたが、そのピリポに対してイエス様は「わたしを見た者は父を見たのです」とお答えになりました(ヨハネ14:8-9)。霊なる神様を見ることはだれにもできませんが、人となられた神、イエス様を通して神様を見ることができるのです。

全知全能

「神にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:37)」
 神というからには、どんなことでもおできになり、どんなことでも知っておられるお方でなければならない、と私は考えます。この基準に照らすなら、全知全能なる聖書の神様以外に神はありえません。学問の神、商売の神、安産の神、無病息災の神、交通安全の神…というように限られた役割しかできない神は、神とは言えないのではないでしょうか。
 神様は現在、過去、未来を問わず、すべてのものを完全に永遠の初めから知っておられるお方です。神様は私たちの「頭の毛さえも、みな数え」ておられ(マタイ10:30)、私たちの行動と思いと心のすべてを(詩139:1-4)、私たちが必要とするものを(マタイ6:8)、ことごとく知っておられます。私たちのすべては何一つもれなく神様に知られているのです。
 また、神様はご自分がそうしたいと思われることを何でもすることがおできになります。神様はどんなことでもみこころのままに実現されるお方です。神様は私たちのどんな願いでもかなえることがおできになります。
 ですから、もし私たちが神様を本当に信じて、神様のみこころに合った願いをするなら、どんなことであろうとも必ずかなえらると聖書に約束されています。「あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう(ヨハネ14:13)」
 私たちのすべてを知っておられ、私たちのすべての必要を満たすことのできるお方は神様だけです。この神様に信頼して歩むなら、私たちの人生には何の恐れも不安もありません。「彼に信頼する者は、失望させられることがない(ロマ10:9)」

創造主

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(伝道者の書12:1)」
 聖書の教えている神様とは「創造主」です。日本人は「キリスト教の神は外国の神」とよく言いますが、これは日本人の神観から生まれた的外れの考えです。神が宇宙全体をお造りになった創造主であるなら、その神は宇宙全体の神、全世界の神、全人類の神であるわけですから、当然私たち日本人の神でもあるのです。
 創造主なる神様の存在を認めるなら、私たちの世界観は全く変わります。私たち人間を含めてこの世界にあるすべてのものは偶然発生したものではなく、全知全能なる神様によって造られたものです。そう考えるならばこの自然世界の驚異と不思議はすべて説明がつきます。そして神様の創造の御業の偉大さに心を打たれることでしょう。
 神様を信じるか信じないかは、創造主を認めるか認めないかにかかっています。人が自分を創造されたお方を認める時に初めて、自分が今まで神様を知らず、神様を無視し、自分勝手に生きてきた罪人であることを知るのです。そしてその罪に対する神様のさばきが正しいことと、自分にはどうしても神様の救いが必要であることが分かるのです。

(2-3)神とはどんなお方か?(2)

日本や諸外国の神話に出てくる神々の多くは、非常に人間的な道徳的に低いものとして描かれています。例えば、ギリシャ神話の最高神ゼウスは、妖精や人間の女性と交わって多くの子供をもうけたとされており、日本神話に登場するスサノオノミコトは、田んぼのあぜを壊したり乱暴をするなどの数々の悪業を働いています。しかし聖書の神は、人間をはるかに越えたお方であり、道徳的にも完全なお方です。「その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方である(詩篇83:18)」

きよいお方

「神聖にして侵すべからず」という言葉があるように、神様は絶対的に「きよい」お方です。神様には罪汚れは全くありません。それゆえ神様の完全なきよさはあらゆる悪を忌み嫌います。神様はどんなに小さなことであっても決して悪を受け入れることはなさいません。水と油が混ざり合わないように、きよさと汚れは一緒になることはないのです。
 神様がきよいお方であるということは、私たちにとって恐ろしいことです。なぜならきよい神様の目からみれば、私たちはだれもが罪に汚れた悪人であることは明らかだからです。旧約聖書では神様はあまりにもきよくて、罪ある人間がその御姿を見るなら必ず死ななければならないとされていました(イザヤ6:5)。ですから私たちは、汚れたままではきよい神様の御国である天国に入ることはできません。
 私たちが天国に入るためには、神様によって罪をきよめていただく必要があります。きよめられるとは、私たちの罪が完全に取り除かれることを意味します。聖書は「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめる(1ヨハネ1:7)」と、私たちがきよめられるための唯一の手段は「イエス様の血」であると教えています。
 旧約の律法では、罪のきよめのためには、いけにえとしての動物の血が毎日流されなければなりませんでした(ヘブル9:22)。しかし今や、神の御子であるイエス様が私たちの罪のいけにえとして十字架の上で血を流して死んで下さったのです。それゆえに、私たちはイエス様を信じるだけで、すべての罪を赦され、完全にきよめられて天国に入ることができるのです。

正しいお方

ローマのサン・ピエトロ大聖堂にあるシスティーナ礼拝堂の正面壁には、有名なミケランジェロの「最後の審判図」が描かれています。その絵のごとく、神様は世の終わりの日にはすべての人をそれぞれの行いに応じてさばかれると新約聖書ヨハネ黙示録には書かれています。正しい者は永遠のいのちを受けて天国へ、悪しき者は地獄での永遠の滅びの刑罰へ――この神様の厳しさを見る時に、私たちは神様を冷酷で非人間的な存在だと考えて、そのような神なら信じたくないと思ってしまうものです。
 しかし神様が悪を平気で見逃されるお方であれば、神様は正しいお方であるとは言えません。日本では「地獄の沙汰も金次第」ということわざがあるように、高いお金を払って長くて良い(?)戒名を付ければ極楽へ行けるという迷信がまかり通っていますが、本当の神様はそんな“賄賂”によって左右されるような不正なお方ではありません。
 神様は唯一の正しいさばき主であられます。神様のさばきは完全に公平、公正です。なぜなら、本来私たちはだれもが神様のさばきを受けるべき罪人であるにもかかわらず、神様は私たちが正しい者と認められて天国へ入る救いの道を備えて下さったからです。それが御子イエス・キリストによる救いの福音です。
 神様は、だれでも信仰をもって福音に聞き従うなら正しい者として救って下さり、福音を聞いても信じないで神様に逆らい続ける者を悪人として滅ぼされるのです。福音を聞いて信じるか信じないか、すなわち救われるか滅びるかは私たちの選ぶべき責任です。ここに神様の真の正しさがあります。 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている(ヨハネ3:18)」

愛なるお方

「神は愛です(1ヨハネ4:16)」、これこそ神様の特徴を最もよく現している言葉だと言えましょう。神様が「きよく正しいお方」であると同時に「愛なるお方」であることは本当に感謝なことです。その神様の愛を知るなら、私たちは神様を信じたいと思うでしょう。
 ところで「愛」というと私たちは男女の情愛、親子や友人間の親愛というものを思い浮かべますが、神様の愛はそのような人間的な愛とは全く異なると言ってよいほど、大きく、広く、高く、深い完全な愛なのです。
 私たちは自分にとって価値のある人を愛します。しかし神様は何の価値もない罪人を愛されました。私たちの愛は変わりやすく終わることのある愛です。しかし神様の愛は永遠に不変です。私たちは自分を憎む者を愛することはなかなかできません。しかし神様はご自分を憎んだ、敵である私たちを愛されました。そしてご自分のひとり子さえも惜しまず私たちに与えて下さったのです。ここに神様の真実の愛があります。
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです(1ヨハネ4:9)」

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