救いとは?
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」と聖書は教えています。では、私たちは一体何をすれば救いを受けることができるのでしょうか。また救われたら、私たちにどのような変化が起きるのでしょうか。この課では、救いを受けるための方法と、救われた者に与えられるすばらしい祝福の約束を学びます。
(5-1)どうすれば救われるのか
多くの宗教では、救われるためには「厳しい修行を積まなければならない」とか、「良い行ないをたくさんしなければならない」とか、「持っている財産を献げ尽くさなければならない」とかいうように「行ない」による救いを教えています。しかし聖書は、救いは「信仰だけ」によることを教えています。聖書の教える信仰には、「悔改めること」と「信じ受け入れること」と「告白すること」の三つの要素があります。
悔い改める
悔い改めとは、神様に対する自分の罪を悔いて、今までの良くない思いと行動を改めようと、心を入れ換えることを決意することです。悔改めの出発点は、自分が神様に対して罪を犯して来た者(罪人)であることを素直に認めることです。ですから、「自分は罪人ではない」と思っている人は、悔い改めることは不可能です(1ヨハネ1:8-10)。
自分の罪を認めたなら、次にはその罪を悔いる、すなわち罪を犯して来たことを深く悲しんで、後悔し、心から反省することです。罪を認めただけで終ってしまうなら、それは単なる「開き直り」にすぎません。
罪を本当に悔いたなら、今までの「罪を犯そう」という思いに背を向けて、「罪を犯すまい」という思いに、心を方向転換しなければなりません。罪を認めて、それを悔いても、またすぐに何事もなかったかのように同じ罪を犯してしまうのでは意味がありません。
悔い改めるとは簡単に言えば、「神様、私は悪い人間でした。本当にごめんなさい。もう罪を犯しません。私の罪を赦し、私を助けて下さい」と真心からお祈りすることです。
信じ受け入れる
神様は、罪を悔い改めた人を、大変喜んで愛してくださいます(ルカ15:7,10)。そして前もって用意してあった救いのプレゼントを、「さあ、受け取りなさい」と言って差し出して下さるのです。
その救いのプレゼントとは、「イエス・キリスト」です。第4課で学びましたように、神様は、私たちのすべての罪をイエス様に負わせて十字架の身代わりの死によって処分して下さり、イエス様を三日目によみがえらせることによって、私たちが罪の赦しと永遠のいのちを受けられるようにして下さいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16)」と聖書に書かれている通りです。
プレゼントをもらうために必要なことは、素直に喜んで受け取ることだけです。しかし、プレゼントを必要ないと思ったり、本当にくれるのかどうか疑ったりして、手を引っ込めたままであるなら、せっかくのプレゼントをもらうことはできません。
信じ受け入れるとは、「私には救いがどうしても必要です。どうか私に救いを与えてください」と真剣に願い求め、神様の愛と真実を信じて、神様が差し出して下さっているイエス・キリストによる救いを、心から感謝して受け取ることです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(使徒16:31)」
告白する
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(ローマ10:9-10)」
神様は、悔い改めて、イエス様の救いを信じ受け入れた者は、それを口で告白するようにと命じておられます。しかし、神様は私たちの心の思いを全て知っておられるお方ですから、「わざわざ口で言わなくてもいいではないか」と思ってしまいます。
しかし、告白することには重要な意味があるのです。もし私たちが愛する人と結婚したいと、心の中でどんなに強く思っていても、「結婚して下さい」と口に出して言わなければ、プロポーズにはならないでしょう。
告白は、厳粛な意思表示です。いいかげんな思いや気まぐれではなく、真剣に自分の思いを神様にお伝えすることです。私たちが「私はイエス様を信じ受け入れます。私を救って下さい」と、神様への祈りの中ではっきり告白する時、神様はその告白を聞き入れられて、私たちを救って下さるのです。
また、告白することによって、私たちは自分が救われたことを確信できます。心の中で思っただけでは、いつ信じたのか忘れてしまう事もあります。本当に信じたのかどうか分からなくなってしまう事もあります。しかし告白したという事実があれば、その時に間違いなく私たちは救われたのです。なぜなら神様が「心に信じて、口で告白した者は救われる」と明確に宣言しておられるからです。
(5-2)救われるとどうなるか(1)
罪を悔い改めて、イエス様の救いを信じ受け入れて、告白した人は救われています。私たちは救われた時から、今までとは全く違った新しい人生を歩み始めることができるのです。それは、神様が救われた者に与えて下さるすばらしい祝福によるものです。
罪が赦される
救われた者は、現在・過去・未来のすべての罪を神様に赦していただけます。どんなに多くの罪であっても全部赦されます。また、どんな大きな罪であっても赦されます。それほどまでに、イエス様の十字架の死の代価は大きいのです。
罪が赦されたということは、神様と完全に和解、すなわち仲直りしたということです。もう私たちは神様に敵として憎まれることはありません。すべての罪は帳消しにされて、無罪を宣告されますから、二度と過去の罪を問われることはありません。死後のさばきによって地獄に落とされることも、永遠の滅びの刑罰を受けることもありません。
罪が赦された者にとって、もはや神様は恐ろしいお方ではなく、愛とあわれみに満ちたお方となって下さるのです。
ただし、たった一つだけ「赦されない罪」があると聖書は教えています。それは「聖霊を汚す罪」です(マルコ3:29)。「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい(ヘブル10:29)」と教えられているように、私たちがイエス様の福音を聞いていながら、聖霊の働きによって心を動かされていながら、なお心を固くして「救いなどいらない」と断固として悔改めを拒んで、罪を犯し続けるなら、その人の罪は赦されません。
しかし、本当に救われている人なら、この赦されない罪を犯すことはないはずです。なぜなら、救われた者の内には聖霊が住んでおられて、犯した罪に対する痛みと悲しみを心に生じさせ、必ず悔改めに導いて下さるからです。悔い改めた罪は赦されます(1ヨハネ1:9)。ですから、救われた者にとって、赦されない罪は一つもありません。
聖霊が住んで下さる
救われた人の心の中には、神様―<聖霊なる神>―が住んで下さいます。それが「救われた証拠」だと聖書は教えています(2コリント1:22)。
聖霊は「きよい御霊(ローマ1:4)」と呼ばれているように、私たちの罪に汚れた心をきよめて、神様に喜ばれる新しいきよい心に造り変えて下さいます。
また、聖霊は「助け主(ヨハネ14:16)」とも呼ばれているように、私たちを信仰生活のあらゆる面で助けてくださいます。
具体的には、(1)聖書を理解できるように助けてくださる(ヨハネ16:13)、(2)信仰による確信、喜び、識別力を与えてくださる(ローマ14:17、1コリント2:15)、(3)神様のご性質(御霊の実=愛,喜び,平安,寛容,親切,善意,誠実,柔和,自制)を持てるようにしてくださる(ガラテヤ5:22-23)、(4)罪を示し、良心に働きかけて、悔改めへと導いてくださる(ヨハネ16:8)、(5)罪から遠ざけ、きよめられた生活を送れるようにしてくださる(ローマ15:16)。(6)主に奉仕するための知恵や技術や力<御霊の賜物>を与えてくださる(1コリント12:8-10)、(7)父なる神様に祈ることができるように、私たちに代わってとりなしをしてくださる(ローマ8:26-27)。
このように、神様は聖霊によって救われた者を助け、守り、導いてくださるのです。そのことによって、私たちが確かに救われていることを実感することができます。
新しく生まれる
もし私たちの罪が赦されて、聖霊が心の中に住んで下さっても、私たちが救われる以前のままで何も変わらないとしたら、それは大変悲しくつらいことです。救われても何の変化もないみじめな自分の姿を、いつまでも見続けなければならないからです。
しかし、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(ヨハネ3:3)」とイエス様が言われたように、神様は救われた者を造り変えて「新しく生まれ」させてくださいます。それは外面的な肉体が造り変えられるということではなく、内面が造り変えられる、すなわち心が新しくされるということです。これは、心の中に住んで下さった聖霊の働きによるものです(テトス3:5-6)。
私たちは救われた瞬間に、新しく生まれます。その時、古い罪の性質が取り除かれ、新しいきよい性質が心の中に与えられるのです(エゼキエル36:26)。それによって、今まで捨てることのできなかった罪の生活を捨て去ることができるようになり、今までしたいと思ってもできなかった神様に喜ばれるきよい生活ができるようになります。私たちは新しく生まれることによって、新しい人生を歩むことができるようになるのです。
ただし、新しく生まれても、瞬間的に完全にきよい者になるのではありません。生まれた赤ちゃんが成長して大人になるまでは時間がかかるのと同じように、私たちの心の中に新しく生まれたきよい性質も、聖霊によって少しずつ、しかし確実に成長させられ、完成に近づいて行くのです。最終的に完成されるのは――私たちが天国に入る時です。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(2コリント5:17)」
(5-3)救われるとどうなるか(2)
「キリストは…、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります(ヘブル7:24-25)」一度救われた者は、完全に救われているのであって、どんなことがあっても救いを失うことは決してありません。神様の与えて下さる救いは、一時的なものではなく、永遠に続くものです。
永遠のいのちを受ける
「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(ローマ 6:23)」とありますように、救われた者は「永遠のいのち」を受けます。でも、永遠のいのちとは何なのでしょうか。SF小説などに出て来る「不老不死の薬」のようなものなのでしょうか。
聖書は、永遠のいのちとはイエス様の内にある神様のいのち、またはイエス様ご自身であると教えています(1ヨハネ5:11、20)。神様とは永遠に生きておられ、死ぬことのないお方、永遠のいのちを持っておられるお方です。イエス様は、人となられて私たちの罪のために十字架で死なれましたが、三日目に復活されました。それはイエス様が永遠のいのちを持っておられる真の神様であることの証拠です。
私たちが永遠のいのちを受けているということには、二つの意味があります。
一つは、永遠のいのちであるイエス様が、私たちの内に生きて下さるということです。イエス様はこのことを、「ぶどうの木」と「枝」にたとえて説明されました(ヨハネ15章)。木から折り取られた枝は、すぐに枯れてしまいます。それは枝の中にはいのちが存在しないからです。枝は木につながっていて初めて、木からいのち―水や養分―を受け取ることによって生きることができ、成長し、花や実を結ぶのです。
イエス様が内に生きて下さることによって、私たちはイエス様とのいのちのつながりを得ます。そしてイエス様から、いのちの恵みを豊かに受け取り、霊的に成長し、神様に喜ばれる良い実を結ぶことができるようになるのです。私たちが聖霊によって与えられた新しいきよい性質は、このイエス様のいのちから来るものです。
もう一つは、イエス様が復活されたように、私たちの肉体が滅びたとしても、やがてイエス様と同じ新しい体に復活させられるということです。その体は、「御霊の体」とも「栄光の体」とも呼ばれていますが、それは死ぬことのない体であり、老いることも、病にかかることもない完全な体であると教えられています(1コリント15:42-44)。
それは、この世の終りにイエス様が再び地上に来られる時、再臨の時に実現します。その時、すでに死んで眠っている者は栄光の体によみがえり、生きている者は一瞬の間に栄光の体に変えられ、いつまでも永遠にイエス様と共に生きることになるのです(1コリント15:20、52-53,1テサロニケ4:13-17)。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです(ヨハネ11:25)」
神の子供とされる
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった(ヨハネ1:12)」とありますように、救われた者は神様の子供としての特権を受けることができます。
子供の特権は、親の愛と保護を受けることと、親の財産を相続することです。父なる神様は、子供である私たちを愛し、すべて必要なものを与えて養い育て、最善の導きと、あらゆる守りを与えて下さいます。(マタイ6:26-33、7:9-11)
また私たちに、相続財産として「天の御国」を与えて下さいます(ローマ8:17、ヤコブ2:5)。それは、私たちが天国において住む場所、永遠の住いです。きっとそこは、私たちの地上の住いとは比べ物にならないほど、素晴らしくて広くて美しい所に違いありません。
私たちは聖霊によって、父なる神様のことを「アバ(=おとうちゃん)」と、親しみを込めて呼ぶことができるようになると教えられています(ガラテヤ4:6)。それは私たちが、ひとり子であられるイエス様と同じように、実の我が子として神様に愛され、受け入れられているということです。なんと感謝なことでしょうか。
天の御国が約束される
救われて神様の子供とされた者が、この地上での生涯を終えた後に行く所は、天の御国、天国です。天国は、父なる神様とイエス様のおられる所です。私たちはそこにおいて、永遠に神様と共に住まい、永遠に安らぐことができるのです(2ペテロ1:11、マタイ11:28)。
この御国は、最終的には世の終りに神様が用意して下さる「新天新地」によって完成されます。そこには暗い所はありません。罪も汚れも不正もありません。失望も不安も疑いもありません。死も病もなく、悲しみも悩みも苦しみもありません。(黙示21:1-4)
天の御国には、神様の恵みと祝福だけが存在します。そこでは神様の栄光の輝きが、私たちの心をいつも照らしてくださいます。そして神様はいつも私たちと共にいてくださり、私たちの心を完全にきよくし、私たちの心を喜びと楽しみと平安でいつも満たして下さるのです。(黙示21:22-22:5)