『主の大庭で過ごす幸い』(2024.8.11礼拝)

礼拝説教題『主の大庭で過ごす幸い』詩篇84篇

【主題聖句】
まことに あなたの大庭にいる一日は 千日にまさります。 私は悪の天幕に住むよりは 私の神の家の門口に立ちたいのです。(詩篇84:10)

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

この84篇は、詩篇の中で最も美しい「珠玉」と呼ばれます。ここから毎週教会で神様を礼拝できることがいかに幸いであるかを学びましょう。

第一に、いつ礼拝できなくなる環境に置かれるか分からないからです。この詩篇が歌われた背景は、息子アブサロムの謀反によって都落ちしたダビデ(2サムエル15:14)、またはバビロンに捕囚されたコラ人たちの心境があると考えられます。それまで当然に神殿で神様を礼拝していた彼らが、突如としてできなくなったのでした。「失って初めて知る価値」と言われますが、彼らはその時、礼拝がどんなに慕わしく、自分の身と心と魂の喜びにとって無くてはならないものであるかを知ったのです。私たちも病気やケガ、天災などによって突然そうなることがあるかもしれません。
第二に、神様を礼拝できる環境に置かれているならば、いかに困難な状況の中にあったとしても神様の守りを信頼して平安が持てるからです。私たちが礼拝の心、すなわち神様に真っ直ぐに向いて大きく開いた心を持っているなら、たとえ苦悩の「涙の谷」を過ぎる時であっても(2サムエル15:23)、そこを平安と希望の「泉の沸く所」とすることができるでしょう。だから、むしろ困難な時こそ礼拝に集って信仰の力を得て欲しいのです。
第三に、礼拝を他の何物ものよりも大切にする時に神様の最も豊かな祝福があるからです。神様は私たちに恵みと栄光を降り注いでくださる「太陽」であり、あらゆる危険から守ってくださる完全な「盾」です。このお方と一緒に過ごす礼拝の一日は、神様から離れて生活している千日に勝ります。私たちは世と妥協して神様を信じない「悪の天幕」に安住することを良しとせず、むしろ「神の家の門衛」として信仰のために戦い(1歴9:19)、礼拝を喜び楽しみとして可能な限り守る者でありたいと思います。

三谷浩司 牧師