『私に翼があったなら』(2023.9.3礼拝)
礼拝説教題『私に翼があったなら』 詩篇55篇1-11節
【主題聖句】
私は言いました。 「ああ 私に鳩のように翼があったなら。
飛び去って 休むことができたなら。(詩55:6)
55篇が詠まれた背景は、ダビデが息子のアブシャロムの謀反に会い、都を追われて荒野に逃亡した事件であると思われます(2サムエル15-17章)。この時ダビデは、義祖父であるギロ人アヒトフェルにも裏切られました。彼は知恵に優れており、ダビデの助言者として重用されていた人物です。彼が敵であるアブシャロム側についたということは、ダビデと王の家族に生命の危険が及ぶことを意味していました。実際にアヒトフェルは知恵を用いてダビデを倒す方法をアブシャロムに助言し、もしそれが実行されていればダビデは確実に殺されていました。そうした状況の中でダビデは、急いで「のがれ場」へたどり着けるように神様に助けを呼び求めたのです。
ダビデは自分に翼があったなら、飛び去って休むことができると言っています。でもなぜ「鷲(イザヤ40:31)」のような翼ではなく、「鳩」のような翼なのでしょうか。鳩は危険を察知するとすぐに飛び立つことができます。また帰巣本能があり、どんなに遠い場所に行っても必ず自分の巣に戻って来ます。すなわちダビデは、アブシャロムの手からすぐに逃れさせてくださいと祈ると同時に、一時的に遠い荒野に逃れ去ったとしても必ず自分の住まいのあるエルサレムに戻らせて欲しいとの願いを込めたのでしょう。
しかし真の「のがれ場」は神様ご自身です(詩46:1)。たとえ私たちに飛ぶ翼がなくても、神様は私たちをご自分の翼の下にかくまわれて(ルツ2:12)、またその翼に載せて安全な場所まで運んでくださるのです(申32:10-11)。確かに罪に満ちたこの世界には危険が溢れています。でも私たちが本当に必要とする翼は危険を逃れて遠くへ飛び去るための翼ではなく、私たちの霊の家である神様のもとに戻るための「信仰の翼」です(1ペテロ2:25)。その翼はイエス様を自分の救い主なる神と信じるなら誰にでも与えられます。
三谷 浩司 牧師