人間とは?

哲学者パスカルは「人間は考える葦である」と言いましたが、人間だけが他の動物と違って、本能だけでなく理性を持っています。理性とは自分で考え、自分の意志で自分の良いと思う物事を選択決定していく能力です。神様は人間をロボットとしてではなく、自由意志を持つ自己責任のある存在として創造されました。この課では人間の本来あるべき姿と現実の姿を学んで行きます。

(3-1)神のかたち

「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された(創1:27)」と書かれているように、人間は神のかたちに造られたと聖書は言っています。では「神のかたち」とは一体何でしょうか。またそれは私たちにとってどういう意味があるのでしょうか。

人間の造られた目的

人間の造られた目的、それはそのまま人間の存在目的あるいは生きる目的と言ってもよいでしょう。人間が偶然に猿から進化した動物にすぎないのであれば、造られた目的もなければ存在目的も生きる目的もないということになります。しかし人間は造られた存在、被造物であるからこそ目的を持ったすばらしい存在なのです。
 時計は、その造られた目的の通りに時間を正確に知らせるからこそ存在価値があります。もしその時計が狂ってしまったら何の価値も無くなってしまいます。同じく人間も、造られた目的の通りに生きる時にのみ存在価値があるのです。
 聖書は、人間は「神様の栄光を現すため」に創造されたことを教えています(1コリント6:20)。神様の栄光を現すとは、神様のみこころに従い、神様に喜ばれるように歩むことです。私たちがこの目的に従って生きるなら、私たちは神様の祝福と真の満足を得られるのです。
 また人間は「神のかたち」を持つ存在として造られました。それは人間が神様と親しく人格的な交流をするためであり、神様に任命された管理者として地上のすべてのものを支配するためです(創1:26)。これは人間だけに与えられたすばらしい特権であり祝福です。

人間の創造

神様は人間を神のかたちに創造し、男と女とに創造されました(創1:27)。このことは男女が神様の前には初めから平等な存在であることを意味しています。よく「聖書は男尊女卑を認めている」と批難されますが決してそうではありません。確かにユダヤ人社会では男性優位の傾向が強いですが、聖書の原則は完全な男女平等です。
 しかし男性と女性の創造のされた方法と神様から与えられた役割には相違があります。聖書によるとまず男性が最初に創造されました(創2:7)。彼は「土地のちり」によって造られたのです。これは人間のもろさ弱さを意味しています。興味深いことには、その通りに人間の体は地中にある元素ですべて構成されているそうです。
 神様はそのちりで造られた人間に「いのちの息」すなわち神様の霊を吹き込まれました。すると人間は生き物になったのです。人間は神様のいのち、神様の霊を宿す「神のかたち」としての存在として造られました。ここに人間の尊さの理由があります。
 女性は男性のあばら骨の一部から造られました(創2:22)。つまり男性と女性は一人の人間の体から分かれ出た存在なのです。それゆえ男性と女性は全く同じ尊さを持っているのです。これは神様の深いご配慮によるものです。もし男女が別々に創造されたのであれば、先に造られた男性が優位に立ったでしょう。
 ただし、神様のご命令はまず男性に与えられました。そして女性はそれを補助する「助け手」として造られました(創2:18)。これは男性が女性を支配するということではありません。女性が男性に従い、男性が女性を守ることによって、男女が互いに補い合い、一致協力して神様の栄光を現すためなのです。

最初の人間

最初に創造された一組の男女は「アダム」と「エバ」という名前が付けられました。彼らは神様からの豊かな祝福を受け、「エデンの園」の管理をまかされました(創2:15)。そこでは彼らは神様とともに交わりながら、ともに生きることができました。彼らは完全な「神のかたち」を持つ存在として創造されたため(創1:31)、完全にして永遠のいのち、完全な愛、完全な喜び、完全な平安、そして完全な自由を持っていました。それゆえ彼らには罪も、死も、病も、悲しみも、苦しみも、不安も全くなかったのです。
 このような最初の人間のすばらしい状態こそ私たちの本来あるべき姿であり、私たちの望んで止まない理想的な人生なのです。しかし今の私たちの姿は何と最初の人間の状態とかけ離れてしまっていることでしょうか。私たちは今の自分の姿をしっかりと見つめなければなりません。そしてなぜそのようになってしまったのかを聖書を通してはっきりと知らなければなりません。そして私たちが最初の姿に回復されるにはどうしたらよいかを教えられ、神様に救いを求めて行かなければなりません。

(3-2)堕落

昔から人間の性質を考えるのに「性悪説」か「性善説」かと議論されて来ました。しかし私たちの現実の世界を見ると、どうやら不正や悪が満ち満ちているようです。もともと神様が人間を創造された時は「非常によい(創1:31)」ものでした。人は創造主によって、罪のない完全な者に造られたのに、どうしてその幸福な状態から堕落したのでしょうか。

最初の罪

神様は最初の人アダムをエデンの園の中に置かれ、すべての木から自由にとって食べてよいと言われました。その時の彼はまさしく最高の環境の中に生活していたのです。
 しかし神様はたった一つだけアダムと約束をかわされました。それは「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ(創2:17)」というものでした。この約束はアダムが自分の意志で神様に従うか、それとも従わないかを試すテストでありました。人が神様に背こうとするなら、すべてのことに反抗しなくてもたった一つの約束を破れば十分です。この一つの約束に、神様と人との信頼関係のすべてがかかっていたのです。
神様は決して悪意をもってこの約束をなされたのではありません。なぜなら神様はアダムに、約束を破れば「必ず死ぬ」と前もってはっきりと警告を与えておられるからです。
 しかしアダムとその妻エバは、神様の警告にもかかわらず、その約束を破ってしまいました。彼らは、蛇の姿を取った誘惑者である悪魔の声に従ってしまったのです。
 悪魔は「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです(創3:4-5)」と、もっともらしく魅力のあるメッセージでエバの心を誘惑しました。悪魔はその嘘によって「もし、私たちが神様から離れるなら、神様のような知恵を持ち、自分の力で地上を治められる」という思いを彼らの心に起こさせたのです。それはまさに、もともと天使であった悪魔が犯した高ぶりの罪と同じものです。
 しかし最終的な意思決定をするのは彼ら自身でした。彼らは悪魔の声を退け、神様に従い通すこともできたのです。しかし彼らは、神様から与えられた自由意志をもって故意に神様に背いたのでした。これが人類の最初に犯した罪=「原罪」です。

追放

アダムとエバの罪の性質は、最高の目的、最高の善としての神様から離れて、自分自身を最高の目的として自分の好きなように生きたいという思い、すなわち自分を神とする「自己中心」という欲望でありました。
 罪を犯して神様との信頼関係を失った彼らは、自分たちがもはや最初のようにきよい神のかたちをもった存在ではなく、弱く、醜く、汚れた恥ずかしい裸の存在であることに気付きました。彼らは神様の御前に堂々と出ていくことができませんでした。それどころか、神様の怒りを恐れて、神様の御顔を避けて身を隠さなければなりませんでした。
 神様はアダムが罪を犯したことにより「土地はあなたのためにのろわれてしまった(創3:17)」と言われました。すなわちアダムの罪の影響は人だけでなく地球全体に及ぶことになったのです。その言葉通りに自然は台風、竜巻、地震、噴火、津波、洪水、干ばつ、寒波、熱気、などの天変地異によって人間を苦しめ続けています。
 彼らは美しく平和で幸福なエデンの園を追い出され、のろわれた地で生きて行かなければならなくなりました。それは彼らが神様の祝福と保護を失ったことを意味します。

「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった(ローマ5:12)」とあるように、アダムの罪の結果として人間は死ぬべき存在となりました。
 それは逆に返せば、人はもともとは永遠に生きるものとして創造されたということです。彼らが追放されたエデンの園には「いのちの木」がありました。もしアダムが悪魔の誘惑に負けなかったら、人は永遠のいのちを与えられて永遠に神様と共に生きることができたことでしょう。しかしアダムは神様に「必ず死ぬ」と言われた警告を無視して禁令を犯してしまいました。当然その罰としてアダムは死ななければなりませんでした。
 この「死」とは二つの死を意味します。一つは「霊的な死」です。それは人が、霊のいのちの源である神様から完全に離されたということです。木から折られた枝はすぐに枯れてしまいます。なぜならその枝はいのちの源である木とつながっていないからです。 同じように神様から離れた人間は、肉体的には生きていても霊のいのちは断たれており、霊的には死んだ状態なのです。
 もう一つは「肉体の死」です。人は「土地のちり」で造られました。そこに神様が「いのちの息」つまり霊のいのちを吹き込まれたので人は生きものとなりました。しかし人はアダムの犯した罪によってのろわれた者となり「ちりに帰らなければならない(創2:19)」すなわち肉体の死を迎えなければならなくなったのです。

(3-3)罪人

「あなたは罪人です」と言われたらどんな気持ちがしますか。おそらくほとんどの人は不機嫌になって「私は罪人なんかじゃない」と反発するでしょう。しかしそのような罪を認めようとしない心こそ罪人の性質の現れなのです。なぜなら、聖書は「すべての人は罪を犯した(ローマ3:23)」と、罪のない人はこの世の中に一人もいないということを明確に教えているからです。

不信仰

新約聖書における「罪」という言葉は、原語のギリシャ語では「的外れ」という意味です。つまり人間が正しい方向をむいていないこと、間違った道を歩んでいることが罪の本質なのです。言い換えれば罪とは、真の神様を信じないで背を向け、自分勝手な自己中心的な生き方をしていること、すなわち神様に対する不信仰です。アダムとエバが犯した最初の罪は、この不信仰の罪でした。
 不信仰こそ、あらゆる社会問題の原因です。環境破壊、人種差別、戦争、暴力、家庭不和…これらは創造主なる神様を無視することによって生じて来たのです。もし人間が神様を認め、神様に対する恐れをもって生活するなら、神様が造られた自然をもっと大切にして環境を保護するでしょう。また同じ神のかたちを持つ者として互いを尊び、互いを愛し、互いに助け合って生きていくことでしょう。
 あらゆる時代に人間は理想社会=「ユートピア」を夢見て、それを実現させようと努力して来ました。争いのない平和な社会、貧富の差がなく豊かに暮らせる社会、差別や束縛のない自由な社会…しかしそれらはことごとく失敗に終わっています。なぜでしょうか。
 それはすべての人は罪人だからです。誰もが自分さえ良ければよいと考えて生きているからです。神様を信じない不信仰な世の中は、決してユートピアを実現することはあり得ません。かえってますます世界は悪くなっていくと聖書は預言しています(マタイ24:4-12)。

汚れと悪

不信仰によって人間の心に生じた罪は、実際的な悪となって表面化します。
 聖書には悪の具体的なリストが何ヶ所かに登場します。「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです(マタイ15:19)」「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです(ガラテヤ5:19-21)」「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です(ロマ1:29-31)」
 ある人は「私はこのリストに該当するようなことは何もしていない」と言うかもしれません。しかし完全にきよい神様の前では「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです(マタイ5:28)」とイエス様が言われたように、たとえ実行しなくても心の中で考えただけで罪を犯したことになるのです。その基準に照らせるなら、罪の全くない者はこの世に一人も存在しないことは明らかです。
 なぜ聖書はそのように私たちを徹底的に罪人扱いするのでしょうか。それは私たちが救われなければならないことを知るためです。もし私たちに罪の自覚がないなら、救いを必要とはしないでしょう。私たちが自分が罪人だと気づいた時、初めて神様の救いを熱心に求めるようになるのです。
 聖書が罪を示してくれないならば、私たちは救われることはありません。ですから聖書による罪の指摘は、神様の厳しさから出たものではなく、愛とあわれみによるものです。

神のさばき

どんな罪人であっても、心を変えて神様のもとに帰るならば、豊かな赦しをいただいて生きることができます。しかし自分が罪人であることを知ったにもかかわらず、神様の提供する救いの恵みを拒み、悔い改めず、依然として不信仰の態度をとりつづけるならば、その人は神様のさばきをまぬがれることはできません。
 聖書はそのさばきの恐ろしさを生々しく記述しています。「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです(2テサロニケ8-9)」「死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた(黙示20:14-15)」「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません(マルコ9:48)」  
 ある人はさばきについての説教を聞いて、最初は全く馬鹿にして信じようとしませんでしたが、集会の後「だが、もしそれが本当ならばとんでもないことになる」と考え直して信仰を持つに至ったそうです。神様は罪人がひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます(2ペテロ3:9)。あなたはどうしますか。

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