『ここにはおられません。よみがえられたのです』(2024.3.31礼拝)

イースター礼拝説教題『ここにはおられません。よみがえられたのです』
ルカの福音書24章1-12節

【主題聖句】
ここにはおられません。よみがえられたのです。(ルカ24:6a)

キリスト教は他の多くの宗教と異なり、教祖の説いた教えが中心ではありません。イエス様が私たちのために十字架で死なれ、三日目に復活されたキリストすなわち救い主であるという歴史的事実が中心なのです。

新約聖書には復活のイエス様にお会いした目撃者の証言が数多く記録されています。彼らはあらかじめ「キリストは十字架につけられ、三日目によみがえる」とイエス様から聞かされていましたが、誰一人としてそのことを信じていませんでした。だからイエス様に仕えていた女性たちは葬られたイエス様の遺体に香料を塗るために、安息日が終わる日曜日の明け方早く墓に行ったのです。その時の彼女らの心配事は、墓の入口の大きな石を誰に転がしてもらうかという現実的なことでした(マルコ16:3)。

しかし墓に到着した彼女らは非現実的な光景を目にします。石が墓のわきに転がされて、その上に二人の天使が座っていたのです(マタイ28:2)。そして天使たちは、イエス様はすでに復活されており、墓の中にはおられないと宣言したのでした。使徒たちは彼女らの報告を聞きましたが、その時はたわごとと思って信じませんでした。彼らが信じたのは、復活され生きておられるイエス様にお会いし、目で見、手で触れたからです。

そして弟子たちはイエス様が本当にキリストであり、彼を信じる者はすべての罪を赦されて、イエス様と同じく死に勝利して天の御国に入ることができるという福音を真実だと確信し、それを世界中の人々に宣べ伝えたのでした(1コリント15:2-5)。もしイエス様の復活が真実でなければ、二千年の長きに渡って何十億という人がだまされて来たことになります。

しかし復活が真実だからこそ、イエス様を信じた人々は誰もが罪を赦された喜びと天国の希望をしっかりと抱き、たとえ死の間際にあっても恐れることなく平安を持ち続けることができるのです(1コリント15:17-20)。

三谷浩司 牧師